2012年10月11日木曜日

商標法の立法精神の問題点

 法律は、その法律を作った目的などの立法精神を前文や第1条などに記載しているものが多い。商標法の立法精神は、日本商標法では第1条に「この法律は、商標を保護することにより、商標の使用をする者の業務上の信用の維持を図り、もつて産業の発達に寄与し、あわせて需要者の利益を保護することを目的とする。」とある。ここで法律により守られ特権を与えられているのは商標権者である。需要者(消費者)の利益に関しては「あわせて」保護されるという付け足しのような存在になっている。商標法の各条文も、商標権者がどのような手続きをしたら、どのように護ってあげるというような内容のものが殆どである。第26条など僅かに商標権者以外の人を護る条文もあるが、それは競業者を保護する規定である。需要者の利益を直接保護する規定は非常に少ない。第51条、第53条に需要者の保護に関係ありそうな条文が存在するが、実際に需要者の保護を謳ったものではない(この条文については後で述べる)。
 そもそも、商標の価値とは何であろうか。商標は、単に登録しただけで使わなければ実際の価値は無い。更に、権利者が使ったとしても、それが消費者の信用を得ることがなければ実際の価値が無い。結局は、消費者が信用を与えて初めて価値が生まれるのである。商標の信用という価値を生むのは消費者即ち需要者と商標権者との間の信用関係なのである。だから、この両者のどちらか一方が欠けては商標の価値は存在しない。その価値を生む需要者は、商標権者と同列で先ず真っ先に保護されなければならない。優先的に保護されるべきなのは商標権者だけではないのである。需要者というと結局は一般国民であるということを考えると、むしろ、商標権者よりも需要者を第一に考えることが自然で当然な考え方とも言えよう。この基本的で重要な観点が多くの国の商標法から抜け落ちている。本来なら、商標法は、「需要者第一」ということを立法精神に挙げなければならない。即ち、「需要者の利益を確保する為に、標章の混同が起きないようにする。」ということを出発点としなければならない。
 このように、需要者即ち国民の保護というものを商標権者より優先させて、または、少なくとも商標権者と同列の優先度で考えていくと、商標法の成り立ちも根本から変わってくる。
 その一つは、商標の存在意義に現れる。商標というものは、先述したように商標権者と需要者との信用関係が価値となるものであるから、「社会的」「公共的」な存在である。この存在意義が、より深く商標法に織り込まれなければならない。例えば、商標権者の自由裁量で勝手に信用を低下させることは制限されなければならない。現在の日本商標法では、第51条、第53条が商標権者の品質維持管理義務に関する条項であるが、商標権者が自分勝手に商品の品質を故意に劣化させることについては、現在は法律的には全く罰せられることがない。故意に品質を劣化させた商標権者は、何れ月日が経てば需要者が品質劣化を認識しそれが広まることにより信用度が徐々に落ち結局は売り上げ減となり自ずと市場の裁きを受けることになる。現在は、このような市場原理に任せて放置した法律になっている。ところが、この現行法では、商標権者が自ずと裁きを受けるまでの長い間ずっと消費者は劣化した商品を買い続けることになる。即ち、需要者は長期に亘り保護を受けずに信用を裏切られ続けることになっている。このような法律は作り直さなければならない。
 需要者を優先させて考える他の観点は、「独占」についての考え方である。商標法は、文字なりマークなりを独占させる為の法律であるが、健全な市場では一般に「独占は悪」とされている。即ち独占禁止法と知的財産権法は鬩ぎ合う関係にある。知的財産権法は一般に独占を確保する方向に働いている。しかし、需要者を商標権者と同列に商標法の主役に持ってくると、需要者は独占の利益などは全く望んでいないので、法律の趣が変わってくる。需要者は単に、安定した信用システムを欲しているに過ぎない。更に一方では、需要者は、多種多様な商品選択肢の存在を欲している。この多種多様な選択肢というのは、独占という概念とは真っ向反対のものである。このように独占を否定する概念を商標法自身に取り入れる必要が出てくる。現行法では、第26条がその関連条文として存在しているが、需要者を主役に考えてみると不十分な規定である。
 更には、需要者というのは一般大衆消費者であるので、非常に多くの多種多様な人が居るということを法律的に考慮しなければならない。商標登録を実施し商品やサービスを提供する商標権者が主な対象であれば、一定レベル以上の理解力や実行力を想定して法律を作成することができるが、需要者という一般大衆を主な対象とする場合は、法律の構造自身を変える必要があるということである。例えば、商標法の基本概念は「混同を起こさない」ということであるが、何十万人、何百万人の需要者が誰も混同を起こさないということは考えられない。いろんな人が沢山いるので、どこかで誰かが必ず勘違いをする。大きな字で「塩」と書いてあっても、白い粉だから砂糖と勘違いして使う人が必ず居るものである。このような現実に対して、現行のような「混同のおそれが有るか、無いか」の二者択一をするという法律システムでは機能しない。
 以上、商標の価値というものを深く考えると、需要者を主役にした立法精神のものにし、現在の商標法を基礎から作り直すことが必要となってくる。

2012年10月1日月曜日

医学的な「丁度良い、頃合、適度、適当、中道、中庸、moderate 」

 コレステロール値は、40年ぐらい前の大衆の認識としては総コレステロール値のみが問題にされ、高ければ循環器系の病気になり易いので低ければ低いほど良いとされていた。20年ぐらい前になると、大衆の認識が変わり、善玉コレステロールと悪玉コレステロールとがあり、悪玉コレステロールをどんどん減らして、善玉コレステロールをどんどん増やすのが良いとされるようになった。現在の大衆の認識は更に変わりつつあり、悪玉コレステロール(LDL;低密度リポ蛋白質)も体には一定量必要であるとの認識が芽生えてきた。要するに、どの成分の値も高すぎても低すぎてもダメで中庸がよいということである。
 血中尿酸値については、過去数十年、高いことは痛風の原因であり悪 いこととされていた。尿酸値が低ければ低いほど痛風にかかり難くて良いとされていた。しかし最近の研究で、尿酸は抗酸化作用が強く老化防止健康維持に効く らしいことが解って来た。尿酸を減らしすぎてはならない。要するに中庸が良いのである。
 肥満についても、数十年以上前の昔から健康に悪いと言われてきた。高齢者の肥満は短命とされてきた。痩せている人は長生きとされてきた。しかし最近数年の研究によると、少し肥満している高齢者の方が長生きすることが判って来た。要するに、過度な肥満は良くないが、適度に太っているのは良いことなのである。
 血糖値については高いとダメと言われていたが、インシュリン投与で血糖値低下を起こして体調不良となり酷い場合は死亡となることが判り、血糖値も中庸が良いということが判った。
 飲酒については、過去から良く研究されており、過度の飲酒は勿論健康に悪いが、「酒は百薬の長」の言葉が古くからあるとおり、適度のアルコール補給は健康に良いことが解っている。
 もともと、多くても少なくてもダメということは、論語の昔より「過ぎたるは及ばざるが如し」と言い伝えられていた。このように、中庸が良いということは昔から解っている真理なのに、どうして最近まで、コレステロールについての知恵が回らなかったのか? どうして尿酸値についての知恵が回らなかったのか? どうして肥満についての知恵がまわらなかったのか? 
 それは多分、人間は「なるべく単純に考えたい」という本能的思考回路になっているからだろう。「頃合、適度、適当、中道、中庸、moderate」などという概念は解り難い。「あれはダメ」「これはダメ」という単純で解り易い概念を、人間は好むのであろう。「高コレステロールはダメ」「高尿酸値はダメ」「肥満はダメ」ということである。それを言い換えると「低コレステロールは良い」「尿酸少ないのは良い」「痩せていれば良い」ということ。この単一方向性が単純性故に好まれることになる。
 さて、昔も今も人間に好まれている単純な命題は、「死んだらダメ」「長生きは良い」。はたして本当かな?