2012年2月16日木曜日

般若心経のアップデート

般若心経 のアップデート
Updating Heart Sutra

 般若心経は長年、世界の広い地域で大乗仏教経典として重要視されてきた。英語では一般にHeart Sutra。中国語及び日本語での長い名前は般若波羅密多心経。いつ誰が著したかははっきりしていないが、龍樹(ナーガールジュナ)が紀元2世紀頃に体系化した「空」(Emptiness、パーリ語でSunnyata)の概念を簡潔に凝縮したものとされている。インドで作られたのか、チベットあるいは中国で作られたのかもはっきりとは判っていない。
大乗仏教の経典としては、古くは弘法大師空海の般若心経秘鍵に始まり現代に至るまで般若心経を絶賛する解説書が夥しく多く出版されている。しかし、大乗仏教以外の視点から解析すると少し話が異なってくる。 
 スリランカ上座部仏教の観点から、アルボムッレ・スマナサーラ師は次のような批判をしている。 般若心経は、「無」(Nothing、パーリ語でNa) という言葉を使って、次から次へと延々と何もかも否定し過ぎている。勢い余って、お釈迦様はさとりの境地に達したのに、そのさとりの境地すらも「無い」と 否定してしまっている。全否定のニヒリズムである。それなのに、話の最後の方になって、突然、呪(マントラ)を絶対のものとして出してきて、「是大神呪、 是大明呪、是無上呪、是無等等呪」と大絶賛するのは、あまりにもひどい論理矛盾というものであろう。このスマナサーラ師の解説と批判は、日本で般若心経の 漢字の字面を見て素直に意味を考えている者にとっては、なるほどと十分納得出来るものである。
天才との呼び声の高い苫米地英人氏は、天台宗の僧籍も持って いるらしいが、苫米地氏は、上記のような何もかも「無」と否定する経文について、これは字の選定間違いであるとの説を唱えている。即ち、もともと「空」は 上位概念で、その下位概念の「無」と「有」との両方を包含するものであるが、現在の漢訳般若心経は、この空と無とを混同している、と言う。本当は、例えば 「色相是空、空即是色」ではなく「色即是無、無即是色」であり、また逆に例えば「無無明亦無無明尽」ではなく「空無明亦空無明尽」である、とのこと。苫米 地氏のような解釈をすると、先述の何もかも否定し過ぎであるという批判については、かなり解消されるように思われる。空はものごとの否定ではないからであ る。しかしそれであっても、だらだらと長く続く「あれも無(空)、これも無(空)」のオンパレードには苫米地氏も疑問を呈している。そして、スマナサーラ 師と同様に、急にマントラを絶賛することにも疑問を呈している。
また、上記の両名共に「観自在菩薩(観音様アヴァローキティ スバラ)」と「舎利子(サーリプトラ)」との関係について疑問を呈している。客観的に見ると、舎利子は、お釈迦様の弟子ナンバーワンであり、観音様よりも ずっと偉い存在である。それが般若心経では観音様の方が舎利子よりも偉いような表現になっている。これは般若心経の作者の不勉強を証明するものだ、とのこ と。現在判っている歴史的な事実から考えると、将にその通りであろう。しかし、このような観音様が舎利子を見下した表現は、「不勉強だ」とまで強く批判す るようなことではなく、単に記述表現上の事柄かもしれない。日本語訳で「舎利子よ」とするから見下したような感じになるが、これを「舎利子様」と改めると それで解決するかもしれない。また、大乗仏教側の他の解説書では、これは、お釈迦様がおっしゃっている言葉で、単に観自在菩薩の口を借りているだけなのだ から、見下した表現でも良いとの説も有る。どちらにしても、本質的な重大事ではないように思われる。
そもそも、この経典での本質的な重大事は「空」の概念であ る。空の概念を非常に短く凝縮して表したものが般若心経であると日本の主な解説書は説明している。しかし、もし無駄を省いて凝縮させたいなら、この般若心 経の著者が何故に観自在菩薩や舎利子などの人物を登場させるのかが、合点がいかない。そのような脇役無しで純粋に理論を述べた方が簡潔で解り易い。即ち、 文章の始まりから、「観自在菩薩が、、、」という表現を省いて、「深く般若波羅密多を行ずれば、五蘊は空だと解る。云々」とやっていけば良いのである。舎 利子の登場も全く不要。
いずれにしても、「凝縮した」といわれる経典にしては、だらだらと「あれもない、これもない」と言い続ける冗長性、そして、急に掌を返して「呪を唱えよ」と言う強引なこじつけ。これらは、経典の構成としてはお粗末である。
一方、弘法大師空海は、さすがに、偉い。上記のような素直な 批判に対する答えともなり得る解説を既に千年以上前に行っている。空海の著した般若心経秘鍵の解釈によると、般若心経の中で色々とくどく並べ立てて次々と 否定表現している理由は、般若心経の出来る頃(紀元3~7世紀頃、諸説紛々)までに細分化された仏教各派に対してそれらを各々個々に取り上げてこの経典内 に包含しているからである、ということらしい。このように多くの宗派に対して包含の宣言をして、結局は密教が世界で唯一無二の正当な仏教であるという主張 を般若心経が行っている、ということらしい。包含の方法として、宗派の固有名詞で名指しするのではなく、その個々の各教義の典型的な否定表現部分を挙げる ことにより、それらを包含しているので、「あれもない、これもない」の部分が冗長になっている訳である。具体的には、声聞乗と縁覚乗とを含む上座部(小 乗)仏教であり、華厳宗、三論宗、法相宗、天台宗の大乗仏教の諸派である。般若心経では、これらの統合を順番にだらだらと前半部分で行い、後半では、「ご ちゃごちゃ言っても結局最終的には(密教の)マントラだ!」という構成になっている。このような空海の解釈は、非常にすっきりしていて美しく、納得がい く。さすが、空海である。
ということで、「般若心経は結局マントラ」という素直で判り やすい解釈は、密教にとっては好都合である。密教の本家といえばチベット。チベットにも般若心経は伝わっており古来より保存状態も良い。般若心経には色々 な言語の色々なバージョンがあり、各々のバージョン内でも言葉が勝手に付け足されたり省略されたりしているし偽経もあるようだ。そういった文化遺産を持つ 歴史的背景により、ダライラマ14世の般若心経に対する解釈は柔軟である。前述の観世音菩薩と舎利子との関係についても、舎利子が正解を導き出す為の質問 を適宜行っている表現部分が昔のオリジナルでは多くあったのが、日本版では殆ど落ちてしまって中途半端に「舎利子よ」が残っているらしい。また、日本版に あるマントラも、言葉としては正確性に欠けるらしい。それらよりなにより、ダライラマ14世は般若心経を安易に賛美する代わりに、仏教はマントラを唱えれ ばそれで済むというような安易なものではなく、さとりに達するには懸命な努力が必要不可欠である、と釘をさしている。
以上で、般若心経の構成に対する考察をほぼ終える。結論とし て、構成の問題点は大きく二つある。一つは、「あれもない、これもない」と無い無い尽くしをダラダラ書かれ過ぎていること。これに対しては、前述のように 空海による多くの宗派を統合する為に必要であるという弁護があったが、それから一千年以上経った現在では必要性の乏しいしかも表現の判りづらいものであ る。また、ダライラマ14世の、舎利子が逐一適切な質問をしている言葉が抜け落ちている(のでダラダラした表現となった)という解釈も、結果として現在の 日本版を不完全なものと結論させる。もう一つは、「結局はマントラ」という牽強付会。ダライラマ14世のおっしゃるとおり、単にマントラを表面的に賛美す るだけに留まっていては、経典としては不十分であろう。結論は以上の二点である。
以上の結論から、どのように改良しアップデートしたら良いか の方向性も自ずと見えてくる。先ず、観自在菩薩や舎利子などの登場人物をなくす。次に、「あれもない、これもない」の冗長な記述を大きく削減する。代わりに「空とは何か」について、もっと多面的に語る必要がある。現代の般若心経の解釈本を見ていると、殆ど全ての本が、この「空とは何か」について、原典には直接表現されていない記述により多くの紙面を費やして解説している。このような解釈解説のエッセ ンス部分を原典に入れる改良をすべきである。即ち、存在の相対性、時間軸で見た存在、「無」との違い、等を簡潔に記載する必要がある。そして更に改良すべ きは、マントラ(呪)の賛美方法である。マントラを、いつ、誰が、どんな場合に、どのように賛美するのか、それでどうなるのか、等を簡潔に記載すべきであ る。また、前記の空がマントラに何故繋がっていくのかの関係についても、解り易く記載すべきであろう。
なお、般若心経の宗教的なありがたさについては、「鰯の頭も信心から」の喩え通り「ありがたい」と思えば「ありがたい」のであって、文章構成に不備や不自然さがあることでありがたさが滅失するものではないことを付言する。
*****(2012.02.16 Sadaisan copyright reserved)*****