2012年12月5日水曜日

並行輸入合法化をグローバルスタンダードに

従来、商標に関する並行輸入を禁止する理由として、「国内」での広告宣伝努力による効果を挙げるのが一般的である。しかし、この効果は、現在ではどんどん縮小している。尤も、広告宣伝そのものの影響力は、時代を経てどんどん大きなものになってきている。しかし、「国内特有の」という条件が付くと、縮小減少している。グローバル化が進み、また情報化が飛躍的に進んで来ている現代では、一般需要者はインターネットからの膨大な情報を得る。このインターネットの情報は、国内、国外を問わない。宣伝広告が日本語であっても、それが国内からの情報であるとは限らない。夥しい量の国外からの情報が日本語で配信されている。あるいは、日本語を含むマルチランゲッジとして配信されている。日本のような言語に閉鎖的な国でもこのような事態である。ましてや、英語にアレルギーの無い日本以外の非常に多くの国では、国内情報と国外情報との障壁は殆ど無い。情報に関して完全に国境フリーである。このような国々では、「国内で宣伝活動を地道に行ったから独自の国内価値を発生する」などという主張は、全く説得力が無い。日本もどんどんその状況に近づいている。国際的なブランドは「世界統一ブランド」として、その価値があるのであって、或る国に特有の突出した価値が生ずるということは、現在の世界情勢では消えつつある。このような現状を踏まえ、各国政府は「並行輸入は基本的に合法」という明確なスタンスを取るべきである。並行輸入を制限するという政府の規制は、世の中のグローバル化に逆らう時代錯誤の措置であることを、当該国政府は認識すべきである。並行輸入合法化をグローバルスタンダードにし、各国政府は並行輸入が合法であるという明確な意思表示をするべきである。

2012年11月23日金曜日

小売店が堂々と商標使用できますように

 或る商標を付けた商品を製造する目的ではないのだがその商標を使いたいという人が、商標権者にライセンスを求める行為は、通常はうまくいかない。例えば、個人営業の小売店が「あるメーカーの商品を扱ってるので看板やチラシにそのメーカーの商標を使わせてくれ」と権利者であるメーカーに正式に契約をお願いすると、権利者はああでもないこうでもないとあれこれ難癖をつけて、商標使用を許諾しようとしないのが常である。商標権者は自己の利益を最大限に考えて、ほぼ必ず「ダメ」と言う。商標というのは完全に自分の私有財産なので、「誰が他人につかわせてやるものか!」というようなスタンスでの対応が多い。一般に、商標権利者は我利への関心は非常に高いのだが、商標は消費者の混同を避け社会秩序を維持する為の公的システムであるというような高度な意識は希薄なのである。目の前の利益追求一本の資本主義という世の中では、仕方のない傾向なのかもしれない。
 しかし、このような我利我利を追求する姿勢には、社会秩序と社会正義の高所からの観点からの指導が必要であろう。商標というものは、商標権利者の考える正義ではなく、国民の考える正義の下で、社会全体で利用していかなくてはならない。
 だから、上記のような商標使用許諾のライセンスの可否については、権利者の意思に係わりなく、日本なら公正取引委員会、米国のFederal Trade CommissionやフランスのConseil de la Concurrenceなどが判定することにするとよいと思われる。そして、このような判定機関は、上記のような公的バランスを考える機関なら良いのだが、商標局(日本で言うと特許庁)ではダメであろう。一般に商標管理局は、権利者側から収入を得るシステムになっており、また権利者側と密な繋がりがある場合が多いので、権利者側の立場に立ちやすく、客観的公平な判定には支障があると思われる。
 それに、法律の整備も必要だ。欧州では欧州商標指令の6条に「商標の効力の制限」という項を設け、商標権者以外でも、こういう場合こういう場合はその商標を使っても良い、ということが表記されている。日本の商標法では26条などであるが、はっきりしない。いずれにしても、商標局ベースの法律なので、もっと全体視野に立った機関からの具体的ガイドラインが必要であろう。

2012年10月11日木曜日

商標法の立法精神の問題点

 法律は、その法律を作った目的などの立法精神を前文や第1条などに記載しているものが多い。商標法の立法精神は、日本商標法では第1条に「この法律は、商標を保護することにより、商標の使用をする者の業務上の信用の維持を図り、もつて産業の発達に寄与し、あわせて需要者の利益を保護することを目的とする。」とある。ここで法律により守られ特権を与えられているのは商標権者である。需要者(消費者)の利益に関しては「あわせて」保護されるという付け足しのような存在になっている。商標法の各条文も、商標権者がどのような手続きをしたら、どのように護ってあげるというような内容のものが殆どである。第26条など僅かに商標権者以外の人を護る条文もあるが、それは競業者を保護する規定である。需要者の利益を直接保護する規定は非常に少ない。第51条、第53条に需要者の保護に関係ありそうな条文が存在するが、実際に需要者の保護を謳ったものではない(この条文については後で述べる)。
 そもそも、商標の価値とは何であろうか。商標は、単に登録しただけで使わなければ実際の価値は無い。更に、権利者が使ったとしても、それが消費者の信用を得ることがなければ実際の価値が無い。結局は、消費者が信用を与えて初めて価値が生まれるのである。商標の信用という価値を生むのは消費者即ち需要者と商標権者との間の信用関係なのである。だから、この両者のどちらか一方が欠けては商標の価値は存在しない。その価値を生む需要者は、商標権者と同列で先ず真っ先に保護されなければならない。優先的に保護されるべきなのは商標権者だけではないのである。需要者というと結局は一般国民であるということを考えると、むしろ、商標権者よりも需要者を第一に考えることが自然で当然な考え方とも言えよう。この基本的で重要な観点が多くの国の商標法から抜け落ちている。本来なら、商標法は、「需要者第一」ということを立法精神に挙げなければならない。即ち、「需要者の利益を確保する為に、標章の混同が起きないようにする。」ということを出発点としなければならない。
 このように、需要者即ち国民の保護というものを商標権者より優先させて、または、少なくとも商標権者と同列の優先度で考えていくと、商標法の成り立ちも根本から変わってくる。
 その一つは、商標の存在意義に現れる。商標というものは、先述したように商標権者と需要者との信用関係が価値となるものであるから、「社会的」「公共的」な存在である。この存在意義が、より深く商標法に織り込まれなければならない。例えば、商標権者の自由裁量で勝手に信用を低下させることは制限されなければならない。現在の日本商標法では、第51条、第53条が商標権者の品質維持管理義務に関する条項であるが、商標権者が自分勝手に商品の品質を故意に劣化させることについては、現在は法律的には全く罰せられることがない。故意に品質を劣化させた商標権者は、何れ月日が経てば需要者が品質劣化を認識しそれが広まることにより信用度が徐々に落ち結局は売り上げ減となり自ずと市場の裁きを受けることになる。現在は、このような市場原理に任せて放置した法律になっている。ところが、この現行法では、商標権者が自ずと裁きを受けるまでの長い間ずっと消費者は劣化した商品を買い続けることになる。即ち、需要者は長期に亘り保護を受けずに信用を裏切られ続けることになっている。このような法律は作り直さなければならない。
 需要者を優先させて考える他の観点は、「独占」についての考え方である。商標法は、文字なりマークなりを独占させる為の法律であるが、健全な市場では一般に「独占は悪」とされている。即ち独占禁止法と知的財産権法は鬩ぎ合う関係にある。知的財産権法は一般に独占を確保する方向に働いている。しかし、需要者を商標権者と同列に商標法の主役に持ってくると、需要者は独占の利益などは全く望んでいないので、法律の趣が変わってくる。需要者は単に、安定した信用システムを欲しているに過ぎない。更に一方では、需要者は、多種多様な商品選択肢の存在を欲している。この多種多様な選択肢というのは、独占という概念とは真っ向反対のものである。このように独占を否定する概念を商標法自身に取り入れる必要が出てくる。現行法では、第26条がその関連条文として存在しているが、需要者を主役に考えてみると不十分な規定である。
 更には、需要者というのは一般大衆消費者であるので、非常に多くの多種多様な人が居るということを法律的に考慮しなければならない。商標登録を実施し商品やサービスを提供する商標権者が主な対象であれば、一定レベル以上の理解力や実行力を想定して法律を作成することができるが、需要者という一般大衆を主な対象とする場合は、法律の構造自身を変える必要があるということである。例えば、商標法の基本概念は「混同を起こさない」ということであるが、何十万人、何百万人の需要者が誰も混同を起こさないということは考えられない。いろんな人が沢山いるので、どこかで誰かが必ず勘違いをする。大きな字で「塩」と書いてあっても、白い粉だから砂糖と勘違いして使う人が必ず居るものである。このような現実に対して、現行のような「混同のおそれが有るか、無いか」の二者択一をするという法律システムでは機能しない。
 以上、商標の価値というものを深く考えると、需要者を主役にした立法精神のものにし、現在の商標法を基礎から作り直すことが必要となってくる。

2012年10月1日月曜日

医学的な「丁度良い、頃合、適度、適当、中道、中庸、moderate 」

 コレステロール値は、40年ぐらい前の大衆の認識としては総コレステロール値のみが問題にされ、高ければ循環器系の病気になり易いので低ければ低いほど良いとされていた。20年ぐらい前になると、大衆の認識が変わり、善玉コレステロールと悪玉コレステロールとがあり、悪玉コレステロールをどんどん減らして、善玉コレステロールをどんどん増やすのが良いとされるようになった。現在の大衆の認識は更に変わりつつあり、悪玉コレステロール(LDL;低密度リポ蛋白質)も体には一定量必要であるとの認識が芽生えてきた。要するに、どの成分の値も高すぎても低すぎてもダメで中庸がよいということである。
 血中尿酸値については、過去数十年、高いことは痛風の原因であり悪 いこととされていた。尿酸値が低ければ低いほど痛風にかかり難くて良いとされていた。しかし最近の研究で、尿酸は抗酸化作用が強く老化防止健康維持に効く らしいことが解って来た。尿酸を減らしすぎてはならない。要するに中庸が良いのである。
 肥満についても、数十年以上前の昔から健康に悪いと言われてきた。高齢者の肥満は短命とされてきた。痩せている人は長生きとされてきた。しかし最近数年の研究によると、少し肥満している高齢者の方が長生きすることが判って来た。要するに、過度な肥満は良くないが、適度に太っているのは良いことなのである。
 血糖値については高いとダメと言われていたが、インシュリン投与で血糖値低下を起こして体調不良となり酷い場合は死亡となることが判り、血糖値も中庸が良いということが判った。
 飲酒については、過去から良く研究されており、過度の飲酒は勿論健康に悪いが、「酒は百薬の長」の言葉が古くからあるとおり、適度のアルコール補給は健康に良いことが解っている。
 もともと、多くても少なくてもダメということは、論語の昔より「過ぎたるは及ばざるが如し」と言い伝えられていた。このように、中庸が良いということは昔から解っている真理なのに、どうして最近まで、コレステロールについての知恵が回らなかったのか? どうして尿酸値についての知恵が回らなかったのか? どうして肥満についての知恵がまわらなかったのか? 
 それは多分、人間は「なるべく単純に考えたい」という本能的思考回路になっているからだろう。「頃合、適度、適当、中道、中庸、moderate」などという概念は解り難い。「あれはダメ」「これはダメ」という単純で解り易い概念を、人間は好むのであろう。「高コレステロールはダメ」「高尿酸値はダメ」「肥満はダメ」ということである。それを言い換えると「低コレステロールは良い」「尿酸少ないのは良い」「痩せていれば良い」ということ。この単一方向性が単純性故に好まれることになる。
 さて、昔も今も人間に好まれている単純な命題は、「死んだらダメ」「長生きは良い」。はたして本当かな?

2012年7月15日日曜日

Criticisms misunderstood iPad litigation in China.


      Apple company litigated a Chinese company who had registered the name “iPad” as trademark in China. But finally Apple ended up the litigation with reconciliation in which Apple buys the trademark “iPad” from the Chinese company by money. Observing the case, lay public may think that the Chinese company is dishonorable and unpardonable. Actually, there are many comments on newspapers and web to accuse the Chinese company and also Chinese government. But, in point of fact, to accuse the Chinese company is wrong. It is understandable that layman attempt to think stereotyped such that China is uncivilized and Chinese are selfish. In spite of these layman's thought, nowadays Chinese government procedure of trademark registration is exact and reliable as same as USA or Japan. Also, nowadays Chinese litigation system works with strict fairness once a litigation officially occurs. In such social situation, Apple finally paid money to the Chinese trademark holder. It means Apple was defeated on the litigation substantially. It also means that, in the fair social rule, the Chinese company is right and reasonable. Although there is criticism that “Apple paid money because Apple hated long-time pending litigation.”, the criticism is also inappropriate thought of man who doesn't know legislation system well.
      The true and essential problem exists in another place. The true problem resides in the trademark laws which most countries in the world use. 
      The first problem is “first file” system. First come, first file. Government should give trademark right to the person who file an application of a product name first to the government when the name is not yet in the market place in the country. The government has given the applicant the trademark right without regard to whether the applicant actually use the name or not in the marketplace. This government procedure can be done with the official fee less than one thousand dollars in many countries. It is so cheap. Then, many people get many names as trademark right and keep them without using them not only in China but also in many other countries.
      Then, as the countermeasure against these “sleeping” trademarks, most governments made a rule to cancel the trademark when it is not used. This is called cancellation by no-use. But, the second essential problem is the cancellation by no-use is very lax stipulation in most of countries. At first, the moratorium period is three (3) years in many countries. If the owner of the trademark has not used it for 3 years, third party can raise a petition for cancellation. In other words, the owner of trademark does not need to use it nearly 3 years. This moratorium period is too long. And, moreover, it is also big problem that very superficial evidence can be submitted as a proof of actual use of trademark. It is all right if the owner has placed a small advertisement on a local newspaper only once in the 3 year. Or, it is all right if the owner has submit an invoice on which the trademark is described once in the 3 year. With one of these evidence, the owner can maintain his trademark right continuously. If the actual trading activity is same as these evidence, it is substantially same as no-use. Hence, superficial “first file” system and lax cancellation system make enormous sleeping trademarks which we (or government) do not have to protect.
      The above situation is not only in China but also many other countries. Such system and situation is the true problem. Then, before you criticize that Chinese companies, you must think about this essential problem of trademark legislation system.

2012年7月11日水曜日

中国iPad商標訴訟批判の間違い


 中国で中国企業が先にiPadという名前を商標登録しアップル社が困って裁判を起こしたが、結局和解となりアップル社がお金で商標権を買う結末となった。これを見た一般人は「中国企業はけしからん」という間違った判断をしてしまいがちである。例えば、真壁昭夫氏「いつまで“わからず屋”と付き合えばいいのか?」http://diamond.jp/articles/-/21293 。一般人は中国をいつまでも後進と位置づけるステレオタイプの見方しか出来ないのだろうが、実は、今の中国政府の商標登録制度は米欧とほぼ同レベルの厳正な出願審査手続きを行っている。また、今の中国は正式な裁判については、昔のような「人治国家」ではなっく、ちゃんとした法治国家としての手続きが行われている。その結果として、アップルは和解金を払って商標を買い取ったのである。即ち、アップルは実質的に正義を求める訴訟には負けたということである。ルール通りの手続きとしては、この中国企業の方が大義があったということである。ここで「アップルは時間がかかるので金で済ませた」という論評もあるが、現在の法律と現場とを理解していない者の言説である。
 真の問題点はもっと他にある。世界の国々が採用している商標法自身の問題点である。
 一つ目の問題は「先出願主義」である。ある商品名を考え付いて、先に政府に出願書類を提出した人がその国での商標権を得ることが出来るという法律である。その商品名が世の中に出回っていない場合は、政府はこの法律によってこの出願人に商標権を与えざるを得ない。この出願人が実際にその商品名を実際に広く使うかどうかをさておいて、とりあえず商標権を与えてしまうのである。これは、日本も含め世界の殆どの国で同じルールである。また、その手続き料は、商品名一個数万円レベルと非常に安い。だから、出願人がとりあえず商標権だけを取って直ぐには使わないでじっと保持しているということがどの国でも頻繁に起きる。
 そこでその対策として、このような使わない商標権に対しては、これを取消し出来るように殆どの国の法律で決められている。「不使用取消し」と云われる手続きである。しかし、二つ目の問題として、この不使用取消し手続きが、どこの国も甘過ぎるのである。先ず、期間が三年。三年以内に使用しなければ他の人が取消しを求めることが出来る。逆に言えば三年近く使用しなくても良い。これでは猶予期間が長過ぎる。その上、「使用した」という実績が非常に形式的なもので可とされることも問題である。一度だけ新聞の端に小さな広告を出したらそれでOKとか、一度だけ正式インボイスに名前が記載されたらそれでOKとかの緩いもので使用実績として認められる。上記のような実績だけなら、それは不使用と実質的に同じである。
 このような形式的出願主義と甘い取消し処分とで、実際に守らなくても良いような商標権が多数登録されているのである。これは各国共同じである。このことこそが、真の問題点なのである。iPad訴訟は、このような商標法自身の欠陥に起因する問題なのである。
 「中国企業は悪質」などという手垢の付いた皮相的な批判を口にする前に、このような商標法の基本的な構造欠陥を認識する必要がある。

2012年5月17日木曜日

パスカルはTwitter名人




 「人間は一本の葦である。しかし考える葦である。」という有名な言葉で知られるパスカル。その「考える葦」は、パンセという書物の347段に書かれている。世の中には、この言葉から想像力を膨らませて、「葦は風が来てもしなやかにそれを受け流すが大木は折れてしまう」等と、このアリガタイお言葉のご威光だけを強調する説明が多い。そして人間は考えるから「偉い」という結論を言う。しかしこの考えは、パスカルの本当の気持ちはかなり異なるようだ。パスカルがパンセで繰り返し繰り返し強調しているのは人間の偉さではなく、もっと大切な神の偉さでありキリスト教の偉大さである。パンセ(Pensee)というのはフランス語で思考という意味だが、その題名に惑わされてはいけない。

 もともとパンセはまとまった書物ではなく、長年溜めていた日常のエッセイや感想の膨大な断片を集めたものである。今で言うと、毎日のTwitterとブログとを集めたような内容である。中には「無益で不確実なデカルト」とか、「流行が好みを生むように正義も生む」とか、「あまりに自由なのは良くない。必要なものが皆あるのは良くない」など短い文で完結してしまっている段も多い。まさにTwitterである。だから、あなたにもパンセは書ける!

 また、パンセには、上記のように短くても意味の深い言葉が非常に沢山あるので、「考える葦」だけを取り立てて強調する必要は無い。全体を見る必要がある。そもそも、何故「葦」なのか?他の草ではダメなのか?何故「芝」ではないのか、芝のほうがもっとしなやかであろう。何故「苔」ではないのか?苔のほうがもっと厳しい環境で生きていける。パスカルが植物として葦を選んだ理由は、識者の解説によると、新約聖書のキリストの伝記中の要所要所で葦が登場してくるからであろうとのことである。やはりパスカルにとって最も偉大で大切なものはキリストであり、人間ではない。「葦はしなやか」とかの、僭越な説明をするべきではない。

 パスカルの著作を総合的に見ると、人間については、「葦のようにしなやかに、、」とか「一本一本は弱いが、、」とか「踏まれても立ち上がる、、」とかいう情緒的な賛美を重要視してはいないようだ。むしろ、パスカルの考えでは、人間について大切なものは事実を積み上げる「ロジック」、客観的で無謬のロジックの組み立が出来ることが肝心であるとの念が強いように思われる。理科系の頭を鍛えよということである。だから、パスカルは幾何学の証明を行う行為を絶賛している。考える葦が考えるべきことは実践的で正確な論理展開である。圧力に関する「パスカルの定理」等多くの自然法則を発見した人である所以である。そして一方、人間の情緒的な(理科系以外の)思考についてのパスカルの結論は、「神のご加護に委ねよ」ということであろう。こちらの方面は神様の出番のようだ。だから、先述のように「無益で不確実なデカルト」などという発言も出てくる。デカルトの「我思う、故に我あり」とパスカルの「考える葦」とを一からげにして、「人間は頭で考えるのでエラい」という風に理解していたなら、本当は両者は全く逆であり、パスカルの全体像が解っていないということだろう。

 まあ、Twitterでは誤解は常であり避け難いものであるので、同様にパスカルも誤解されるのは致し方無いかもしれない。

 近年の同様な誤解の例としては、赤瀬川原平さんの考案した言葉「老人力」。それは、忘却する力、「あ」のつく溜息(あどっこいしょ)、論理より感覚、ピンボケ写真、眠る能力、などで表される年寄りの衰えた実態である。即ち、一般にダメとされていた事象の価値判断を180度逆にして積極的に長所と看做し「力」と呼んだことである。侘び寂びに通じる概念である。ところが「老人力」という言葉が非常に有名になってしまった為、「まだまだ若いものには負けない」というような老人なのに若い時と同様のことが出来る力のことを「老人力」と誤解する人々が物凄く増えたらしい。老人力を180度誤解している訳である。上記のパスカルとよく似た誤解のされ方だ。赤瀬川さんは、「まだまだ力」は老人力ではない!と強く否定したかったらしいが、自らが既に老人力が付いているので、結局は「まあいいか、、」ということになったらしい。

 たとえ赤瀬川さんが皆さんを許しても、パスカルは誤解した皆さんを許さない。