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2013年4月29日月曜日

商標権と大きな政府か?小さな政府か?

 大きな政府か小さな政府かという議論がある。小さな政府を求めるのはリバタリアン。大きな政府を求めるのは、非常に強い概念は「社会主義」、やや強い概念は英国の「コレクティヴィズム」、弱い概念として米国の民主党などがある。大きな政府または小さな政府という考え方からみた商標権はどのようなものであろうか。
 先ず、小さな政府側の考えで言うと、レッセフェール。国家の束縛は最小限に留めて、全ての自由競争を促進する。商標権については、政府の保護する範囲を最小限にすることが要諦である。商標の出所の混同を起こさないこと、それだけをきちんと保護することであり、それ以上でも以下でもない。商標の品質保証機能や広告宣伝機能などまで政府がかまってやることは無い。商標の稀釈が起きるのを防ぐのを政府が積極的にする必要も無い。商標の自他識別機能だけを必要充分に保護すれば良い。
 一方、大きな政府側の考え方で言うと、先ず、企業というものは社会的存在であり、企業の社会的責任をしっかりと果たす必要がある。更に、商標秩序というものは販売者と購買者との信用の上に成り立つものであるから、商標は企業よりももっと公共性の高い社会的存在である。商標には商標権という権利もあるが、商標自体は企業自体よりも公共性が高いので、企業の社会的責任より更に重い社会的義務もついてまわることになる。
 この中間点のどこかでその国に応じてバランスさせるのが政策であり法である。もしも、商標の権利範囲を拡げて商標権を強化するが、商標権者の責任義務については強化もしないし罰則もないという政策をするなら、それは、大きな政府だとしても小さな政府だとしても誤っている。

2013年3月15日金曜日

お菓子「面白い恋人」が「白い恋人」の会社にパクリだとイチャモンをつけられたので、逆に「面白い恋人」のパロディで「大阪の恋人」「通天閣の恋人」「道頓堀の恋人」を発売。現在、大阪の土産物屋や主要駅に山積み!です。大阪人は洒落の解らない野暮な人間を笑い飛ばします。

2013年2月26日火曜日

商標と「馬鹿の一つ覚え」

 その昔、1968年にグルノーブルオリンピック映画「白い恋人たち」が日本でも一世を風靡した。テーマ曲はその頃の若者の全員が良く知っている。その後発売された「白い恋人」という名のお菓子が、この映画の題名をパクッているように見えることは、60歳台の人なら殆どが感じたことだ。(70歳台以上の人なら失礼ながらボケて忘れているかもしれない。なお、このパクリは商標法違反ではない。)しかしながら、今の若い人々は、その辺りの昔の事情を全く知らない。そこで、近年「面白い恋人」というお菓子が吉本興行から出てきた時に、「これは白い恋人のパクリだ」としか、頭が働かないことになる。若い人々が昔の事柄に無知である故に、物事を客観的に深く捉えられないのである。


 第二次世界大戦後に、日本の工業が急発展したが、それらの多くはモノマネだと批判を受けた。カメラについては、「コニカ」や「ヤシカ」のブランドはブランド名からしてドイツの「ライカ」の真似をしていると揶揄された。しかし、ライカの商標名については、ライカはLeicaと書くのだが、オーナーLeitz(ライツ)氏のカメラという意味で、この上の二、三文字ずつを取ってLeica(ドイツ語ではなく英語の “ca”mera)とした素直な短縮形ネーミングである。一方、ヤシカは八洲(ヤシマ)精機のカメラであり、コニカは小西六(コニシロク)写真工業のカメラである。両者共にライカ同様に上の文字を取るという方法での素直な普通の短縮形ネーミングである。批判される筋合いのものでは全く無い。例えば、近年広まっている鶏の唐揚げ丼(ドンブリ)は「トリカラドン」とネーミングされているが、これは「テンドン」(天丼)や「ウナドン」(鰻丼)の名前のパクリと云われるだろうか。日本人なら誰でも、テンドンやウナドンの言葉の成り立ちを知っているので、トリカラドンを名前のパクリだとは言わず、素直な命名と感じる。即ち、ヤシカやコニカの名を批判するということから解るのは、元々の命名の経緯に無知な人間が、あらぬ商標類似の批判をするということである。


 マレーシアに旅行したことのある人はお気付きの方も多いと思うが、首都クアラルンプルの飛行場から街への道路沿いに「Pensonic」の大看板が有る。街の中でも、Pensonicの商標の付いた家電機器を多く見つけることが出来る。「すわ、これは日本のパナソニック(Panasonic)のパクリであろう」と思うことだろう。ところが、Pensonic社はマレーシア国内ではPanasonicより古く、ペナン市に本社のある会社である。ペナン(Penang)の上三文字を取って “Pen”、また音響機器会社であるので、 “Sonic”、合わせてPensonicとなる。(Sonicという名称は多くの音響機器会社や音楽関係の会社で用いられているごく普通の単語である。)このように、全く普通に付けられた商標なのに、Panasonicという名前しか知識の無い日本人は、Pensonicを見て「あっ!パクリ!」と思ってしまうのである。


 同じようなことは日本にもある。日本では現在、アップル社のアイフォン(iPhone)が非常に売れて子供でも殆どみんな知っている。この子供がインターフォンのアイホン(Aiphone)を見たら何人もの子供が「パクリだ」と思うだろう。だが、アイホンは日本国内のみならず世界的にもアップルのiPhoneよりも以前から存在するのである。日本のアイホンのほうが言わば元祖なのである。しかしながら、外国から来日した人々は皆、Aiphoneを初めて知って「あっ!パクリ!」と思うだろう。


 お菓子の「白い恋人」しか知らない人間が「面白い恋人」を批判する。カメラは「ライカ」としか知らない人間が「ヤシカ」や「コニカ」を批判する。Panasonicしか知らない人間がPensonicを批判する。これらは、「馬鹿の一つ覚え」というものから来る批判と言い換えても良いだろう。我々は、このような馬鹿の一つ覚えから来る見当違いの批判を許してはならない。


 しかし、商標法的な考え方で言うと、馬鹿であろうが何であろうが、(一つしか覚えていない)一般大衆に誤認混同を起こさせるおそれがあるものは違法、と解釈される。一つしか覚えていない一般大衆には罪が無く(いわゆる法的に善意)、誤認混同を起こさせる「おそれ」があるモノのほうが排除されることになる。その結果、馬鹿の覚えた一つだけの商標が残ることになる。一種の衆愚政治的な状況である。そして、一旦大商標を持った既得権益者は、この衆愚政治をうまく利用して益々権益を増やすということになる。


 (お断り:上記の意見は、特定の個別企業を批判するものでは全くありません。一般的な真実を記述しただけのものです。)

2012年12月5日水曜日

並行輸入合法化をグローバルスタンダードに

従来、商標に関する並行輸入を禁止する理由として、「国内」での広告宣伝努力による効果を挙げるのが一般的である。しかし、この効果は、現在ではどんどん縮小している。尤も、広告宣伝そのものの影響力は、時代を経てどんどん大きなものになってきている。しかし、「国内特有の」という条件が付くと、縮小減少している。グローバル化が進み、また情報化が飛躍的に進んで来ている現代では、一般需要者はインターネットからの膨大な情報を得る。このインターネットの情報は、国内、国外を問わない。宣伝広告が日本語であっても、それが国内からの情報であるとは限らない。夥しい量の国外からの情報が日本語で配信されている。あるいは、日本語を含むマルチランゲッジとして配信されている。日本のような言語に閉鎖的な国でもこのような事態である。ましてや、英語にアレルギーの無い日本以外の非常に多くの国では、国内情報と国外情報との障壁は殆ど無い。情報に関して完全に国境フリーである。このような国々では、「国内で宣伝活動を地道に行ったから独自の国内価値を発生する」などという主張は、全く説得力が無い。日本もどんどんその状況に近づいている。国際的なブランドは「世界統一ブランド」として、その価値があるのであって、或る国に特有の突出した価値が生ずるということは、現在の世界情勢では消えつつある。このような現状を踏まえ、各国政府は「並行輸入は基本的に合法」という明確なスタンスを取るべきである。並行輸入を制限するという政府の規制は、世の中のグローバル化に逆らう時代錯誤の措置であることを、当該国政府は認識すべきである。並行輸入合法化をグローバルスタンダードにし、各国政府は並行輸入が合法であるという明確な意思表示をするべきである。

2012年10月11日木曜日

商標法の立法精神の問題点

 法律は、その法律を作った目的などの立法精神を前文や第1条などに記載しているものが多い。商標法の立法精神は、日本商標法では第1条に「この法律は、商標を保護することにより、商標の使用をする者の業務上の信用の維持を図り、もつて産業の発達に寄与し、あわせて需要者の利益を保護することを目的とする。」とある。ここで法律により守られ特権を与えられているのは商標権者である。需要者(消費者)の利益に関しては「あわせて」保護されるという付け足しのような存在になっている。商標法の各条文も、商標権者がどのような手続きをしたら、どのように護ってあげるというような内容のものが殆どである。第26条など僅かに商標権者以外の人を護る条文もあるが、それは競業者を保護する規定である。需要者の利益を直接保護する規定は非常に少ない。第51条、第53条に需要者の保護に関係ありそうな条文が存在するが、実際に需要者の保護を謳ったものではない(この条文については後で述べる)。
 そもそも、商標の価値とは何であろうか。商標は、単に登録しただけで使わなければ実際の価値は無い。更に、権利者が使ったとしても、それが消費者の信用を得ることがなければ実際の価値が無い。結局は、消費者が信用を与えて初めて価値が生まれるのである。商標の信用という価値を生むのは消費者即ち需要者と商標権者との間の信用関係なのである。だから、この両者のどちらか一方が欠けては商標の価値は存在しない。その価値を生む需要者は、商標権者と同列で先ず真っ先に保護されなければならない。優先的に保護されるべきなのは商標権者だけではないのである。需要者というと結局は一般国民であるということを考えると、むしろ、商標権者よりも需要者を第一に考えることが自然で当然な考え方とも言えよう。この基本的で重要な観点が多くの国の商標法から抜け落ちている。本来なら、商標法は、「需要者第一」ということを立法精神に挙げなければならない。即ち、「需要者の利益を確保する為に、標章の混同が起きないようにする。」ということを出発点としなければならない。
 このように、需要者即ち国民の保護というものを商標権者より優先させて、または、少なくとも商標権者と同列の優先度で考えていくと、商標法の成り立ちも根本から変わってくる。
 その一つは、商標の存在意義に現れる。商標というものは、先述したように商標権者と需要者との信用関係が価値となるものであるから、「社会的」「公共的」な存在である。この存在意義が、より深く商標法に織り込まれなければならない。例えば、商標権者の自由裁量で勝手に信用を低下させることは制限されなければならない。現在の日本商標法では、第51条、第53条が商標権者の品質維持管理義務に関する条項であるが、商標権者が自分勝手に商品の品質を故意に劣化させることについては、現在は法律的には全く罰せられることがない。故意に品質を劣化させた商標権者は、何れ月日が経てば需要者が品質劣化を認識しそれが広まることにより信用度が徐々に落ち結局は売り上げ減となり自ずと市場の裁きを受けることになる。現在は、このような市場原理に任せて放置した法律になっている。ところが、この現行法では、商標権者が自ずと裁きを受けるまでの長い間ずっと消費者は劣化した商品を買い続けることになる。即ち、需要者は長期に亘り保護を受けずに信用を裏切られ続けることになっている。このような法律は作り直さなければならない。
 需要者を優先させて考える他の観点は、「独占」についての考え方である。商標法は、文字なりマークなりを独占させる為の法律であるが、健全な市場では一般に「独占は悪」とされている。即ち独占禁止法と知的財産権法は鬩ぎ合う関係にある。知的財産権法は一般に独占を確保する方向に働いている。しかし、需要者を商標権者と同列に商標法の主役に持ってくると、需要者は独占の利益などは全く望んでいないので、法律の趣が変わってくる。需要者は単に、安定した信用システムを欲しているに過ぎない。更に一方では、需要者は、多種多様な商品選択肢の存在を欲している。この多種多様な選択肢というのは、独占という概念とは真っ向反対のものである。このように独占を否定する概念を商標法自身に取り入れる必要が出てくる。現行法では、第26条がその関連条文として存在しているが、需要者を主役に考えてみると不十分な規定である。
 更には、需要者というのは一般大衆消費者であるので、非常に多くの多種多様な人が居るということを法律的に考慮しなければならない。商標登録を実施し商品やサービスを提供する商標権者が主な対象であれば、一定レベル以上の理解力や実行力を想定して法律を作成することができるが、需要者という一般大衆を主な対象とする場合は、法律の構造自身を変える必要があるということである。例えば、商標法の基本概念は「混同を起こさない」ということであるが、何十万人、何百万人の需要者が誰も混同を起こさないということは考えられない。いろんな人が沢山いるので、どこかで誰かが必ず勘違いをする。大きな字で「塩」と書いてあっても、白い粉だから砂糖と勘違いして使う人が必ず居るものである。このような現実に対して、現行のような「混同のおそれが有るか、無いか」の二者択一をするという法律システムでは機能しない。
 以上、商標の価値というものを深く考えると、需要者を主役にした立法精神のものにし、現在の商標法を基礎から作り直すことが必要となってくる。

2012年7月11日水曜日

中国iPad商標訴訟批判の間違い


 中国で中国企業が先にiPadという名前を商標登録しアップル社が困って裁判を起こしたが、結局和解となりアップル社がお金で商標権を買う結末となった。これを見た一般人は「中国企業はけしからん」という間違った判断をしてしまいがちである。例えば、真壁昭夫氏「いつまで“わからず屋”と付き合えばいいのか?」http://diamond.jp/articles/-/21293 。一般人は中国をいつまでも後進と位置づけるステレオタイプの見方しか出来ないのだろうが、実は、今の中国政府の商標登録制度は米欧とほぼ同レベルの厳正な出願審査手続きを行っている。また、今の中国は正式な裁判については、昔のような「人治国家」ではなっく、ちゃんとした法治国家としての手続きが行われている。その結果として、アップルは和解金を払って商標を買い取ったのである。即ち、アップルは実質的に正義を求める訴訟には負けたということである。ルール通りの手続きとしては、この中国企業の方が大義があったということである。ここで「アップルは時間がかかるので金で済ませた」という論評もあるが、現在の法律と現場とを理解していない者の言説である。
 真の問題点はもっと他にある。世界の国々が採用している商標法自身の問題点である。
 一つ目の問題は「先出願主義」である。ある商品名を考え付いて、先に政府に出願書類を提出した人がその国での商標権を得ることが出来るという法律である。その商品名が世の中に出回っていない場合は、政府はこの法律によってこの出願人に商標権を与えざるを得ない。この出願人が実際にその商品名を実際に広く使うかどうかをさておいて、とりあえず商標権を与えてしまうのである。これは、日本も含め世界の殆どの国で同じルールである。また、その手続き料は、商品名一個数万円レベルと非常に安い。だから、出願人がとりあえず商標権だけを取って直ぐには使わないでじっと保持しているということがどの国でも頻繁に起きる。
 そこでその対策として、このような使わない商標権に対しては、これを取消し出来るように殆どの国の法律で決められている。「不使用取消し」と云われる手続きである。しかし、二つ目の問題として、この不使用取消し手続きが、どこの国も甘過ぎるのである。先ず、期間が三年。三年以内に使用しなければ他の人が取消しを求めることが出来る。逆に言えば三年近く使用しなくても良い。これでは猶予期間が長過ぎる。その上、「使用した」という実績が非常に形式的なもので可とされることも問題である。一度だけ新聞の端に小さな広告を出したらそれでOKとか、一度だけ正式インボイスに名前が記載されたらそれでOKとかの緩いもので使用実績として認められる。上記のような実績だけなら、それは不使用と実質的に同じである。
 このような形式的出願主義と甘い取消し処分とで、実際に守らなくても良いような商標権が多数登録されているのである。これは各国共同じである。このことこそが、真の問題点なのである。iPad訴訟は、このような商標法自身の欠陥に起因する問題なのである。
 「中国企業は悪質」などという手垢の付いた皮相的な批判を口にする前に、このような商標法の基本的な構造欠陥を認識する必要がある。