「人間は一本の葦である。しかし考える葦である。」という有名な言葉で知られるパスカル。その「考える葦」は、パンセという書物の347段に書かれている。世の中には、この言葉から想像力を膨らませて、「葦は風が来てもしなやかにそれを受け流すが大木は折れてしまう」等と、このアリガタイお言葉のご威光だけを強調する説明が多い。そして人間は考えるから「偉い」という結論を言う。しかしこの考えは、パスカルの本当の気持ちはかなり異なるようだ。パスカルがパンセで繰り返し繰り返し強調しているのは人間の偉さではなく、もっと大切な神の偉さでありキリスト教の偉大さである。パンセ(Pensee)というのはフランス語で思考という意味だが、その題名に惑わされてはいけない。
もともとパンセはまとまった書物ではなく、長年溜めていた日常のエッセイや感想の膨大な断片を集めたものである。今で言うと、毎日のTwitterとブログとを集めたような内容である。中には「無益で不確実なデカルト」とか、「流行が好みを生むように正義も生む」とか、「あまりに自由なのは良くない。必要なものが皆あるのは良くない」など短い文で完結してしまっている段も多い。まさにTwitterである。だから、あなたにもパンセは書ける!
また、パンセには、上記のように短くても意味の深い言葉が非常に沢山あるので、「考える葦」だけを取り立てて強調する必要は無い。全体を見る必要がある。そもそも、何故「葦」なのか?他の草ではダメなのか?何故「芝」ではないのか、芝のほうがもっとしなやかであろう。何故「苔」ではないのか?苔のほうがもっと厳しい環境で生きていける。パスカルが植物として葦を選んだ理由は、識者の解説によると、新約聖書のキリストの伝記中の要所要所で葦が登場してくるからであろうとのことである。やはりパスカルにとって最も偉大で大切なものはキリストであり、人間ではない。「葦はしなやか」とかの、僭越な説明をするべきではない。
パスカルの著作を総合的に見ると、人間については、「葦のようにしなやかに、、」とか「一本一本は弱いが、、」とか「踏まれても立ち上がる、、」とかいう情緒的な賛美を重要視してはいないようだ。むしろ、パスカルの考えでは、人間について大切なものは事実を積み上げる「ロジック」、客観的で無謬のロジックの組み立が出来ることが肝心であるとの念が強いように思われる。理科系の頭を鍛えよということである。だから、パスカルは幾何学の証明を行う行為を絶賛している。考える葦が考えるべきことは実践的で正確な論理展開である。圧力に関する「パスカルの定理」等多くの自然法則を発見した人である所以である。そして一方、人間の情緒的な(理科系以外の)思考についてのパスカルの結論は、「神のご加護に委ねよ」ということであろう。こちらの方面は神様の出番のようだ。だから、先述のように「無益で不確実なデカルト」などという発言も出てくる。デカルトの「我思う、故に我あり」とパスカルの「考える葦」とを一からげにして、「人間は頭で考えるのでエラい」という風に理解していたなら、本当は両者は全く逆であり、パスカルの全体像が解っていないということだろう。
まあ、Twitterでは誤解は常であり避け難いものであるので、同様にパスカルも誤解されるのは致し方無いかもしれない。
近年の同様な誤解の例としては、赤瀬川原平さんの考案した言葉「老人力」。それは、忘却する力、「あ」のつく溜息(あどっこいしょ)、論理より感覚、ピンボケ写真、眠る能力、などで表される年寄りの衰えた実態である。即ち、一般にダメとされていた事象の価値判断を180度逆にして積極的に長所と看做し「力」と呼んだことである。侘び寂びに通じる概念である。ところが「老人力」という言葉が非常に有名になってしまった為、「まだまだ若いものには負けない」というような老人なのに若い時と同様のことが出来る力のことを「老人力」と誤解する人々が物凄く増えたらしい。老人力を180度誤解している訳である。上記のパスカルとよく似た誤解のされ方だ。赤瀬川さんは、「まだまだ力」は老人力ではない!と強く否定したかったらしいが、自らが既に老人力が付いているので、結局は「まあいいか、、」ということになったらしい。
たとえ赤瀬川さんが皆さんを許しても、パスカルは誤解した皆さんを許さない。
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