2013年2月4日月曜日

実は『スゴくない』!大人のラジオ体操


 巷では「実はスゴイ!大人のラジオ体操」という本とそのシリーズのDVDがベストセラーということだ。ラジオ体操は、子供の頃に教えられて嫌々格好だけ合わせて体を動かしていたが、ちゃんと真面目に正しくラジオ体操をすると数百の筋肉に刺激を与えて非常に体に良いバランスの取れた最高の運動である、とのことである。

 しかし、この考え方は間違っている。そもそも、ラジオ体操に限らず殆どの体操は、ちゃんと真面目に正しく充分に筋肉を働かすと体に良いものである。(ほんの一部に「うさぎ跳び」などの例外があることはあるが僅か)。単純運動でも真面目にすれば効果が上がる例の最たるものは、最近流行の美木良介氏のロングブレスダイエットである。ただ単に深呼吸をしながら体の全ての筋肉に思い切り力を入れるだけの簡単な体操なのだが、ちゃんと真面目に正しく行うと体から汗が吹き出てくるような「実はスゴイ」運動となる。そして、現に脂肪燃焼しダイエット効果も有るとのことだ。単純な深呼吸体操でもこのようなものである。だから、先ず言えることは、「実はスゴイ!いろんな多くの体操!」ということである。ラジオ体操だけがスゴイのではない。どんな体操でもなまくらにやっていては効果は出ない。当たり前である。

 次に、このような多くのスゴイ体操の中で、ラジオ体操が他の体操より「スゴくない」点を説明していく。

 先ず第一にスゴくないのは、体操で動かす筋肉・関節が腕と肩とに異常に集中し過ぎている点である。他の筋肉や関節はかなり放ったらかしにされている。または、オマケで動かされている。腕の曲げ伸ばし振りの動作によるパートが異常に多く、全身体操としてのバランスに欠けているということである。これは、ラジオ体操第一もラジオ体操第二も同様である。そもそも、人間の運動の基本は「足腰」である。だから、全身体操も足腰の運動を中心に持ってこなければならない。しかしながら、ラジオ体操第一もラジオ体操第二も、足腰の運動をフィーチャーしたパートは殆ど無い。腕を振ったり曲げたり伸ばしたりの似たり寄ったりの動作パートが次々と繰り返される。

 ラジオ体操と良く似た大衆的体操として、中国の気功がある。気功の中でも最も有名で一般的に広く行われている体操が「練功十八法」である。ラジオ体操と同じように体の各部の筋肉を伸ばしたり縮めたりする18個の運動パートで構成されている。この練功十八法の前半部は、ラジオ体操と良く似ている。動かす筋肉の部位や伸縮のさせ方に多くの共通点が有る。異なるのはリズムの速さであり、当然、ラジオ体操は早く、気功は遅い。しかし、この練功十八法の後半部には、ラジオ体操に無い下半身の筋肉の伸縮を取り入れた運動パートが次々と出てくる。即ち、気功の体操は、首の運動に始まり先ず前半は上半身の運動で体をほぐしていき、後半は脚を充分に曲げて下半身にストレスをかけて体全体の運動に高めていく、という素晴らしい発展的構成になっている。素晴らしいというのは、ラジオ体操に比べて素晴らしいということである。気功にはラジオ体操にあるようなジャンプ運動は無いので、100点満点ということではないかもしれない。いずれにせよ、気功は、きっちりと下半身の大きな筋肉を動かしていることは、素晴らしいことである。そして、それはラジオ体操には欠けている。

 ラジオ体操のスゴくない点の第二は、筋肉を徐々にほぐしていくとか、運動を順にだんだん強度の強いものにしていくとかの、ステップアップの概念に乏しいことである。前述の練功十八法では、徐々にステップアップしていく構成になっていることを説明した。そういう構成がラジオ体操では殆ど考えられていない。例えば、ラジオ体操第一の二番目の運動パートは手を振りながら脚を曲げ伸ばしする手足の運動であるが、全く同じ運動パートが最後から二番目にも出てくる。初めから二番目のパートでは、巷のベストセラー著者の言うとおりに「ちゃんと真面目に正しく」行うと、脚が爪先立ちでスクワット状態になり脚にかなり大きな負担となる。体操のし始めにいきなり下肢に大きな負担を与えるのはプログラムの組立上好ましく無いだろう。逆に、ベストセラー著者の言う通りではなく、軽くほぐす程度の運動で良いのだ、と仮定すると、今度は、最後から二番目の同じ運動も、軽くほぐす程度の運動になり、最後の深呼吸運動と連続して冗長なものとなってしまう。テレビなどの指導の先生は、この最後から二番目の手足の運動を「軽く息を整えながら、、」と言って軽度の運動として指導しているが、もともとラジオ体操全体に下半身の運動が少なく、この運動に至るまでの運動パートでは強い運動パートといってもジャンプを数回する程度の大して重くない負荷であり、息は殆ど上がらないので、ここで息を整える必要はさらさら無い。総じて、ラジオ体操は、順番も深く考えずに、次は胸の筋肉、次は体側の筋肉、次は腹筋と背筋、などとのんべんだらりと次々に「作業箇所」を移していくだけのことが多く、全体を貫くグランドデザインが無いのである。

 ラジオ体操のスゴくない点の第三は、リズムが一定のモノトーンでメリハリが無いということである。確かにピアノ伴奏のリズムの速さは、胸を反らす時には一瞬リズムが遅くなり、ジャンプのパートでは一瞬リズムが早くなっている。しかしながら、他の殆どのパートで同じようなリズムの速さで同じようなスピードの筋肉伸縮を繰り返させる。これでは、充分に各筋肉部位に応じた運動が出来ない。例えば前後屈はもっと倍程度にゆっくりとして筋肉を充分に伸ばさせる必要があるし、また例えば手を肩、上、肩、下にする運動は、リズムが遅すぎるのをカバーする為に運動者に「できるだけ素早くっ!」などと変な注文を付けリズムと連動しない不自然な動きを強いている。リズムを保ちたいばかりに充分な運動を犠牲にしているのである。

 以上のようなラジオ体操の欠点は、近年のNHKの体操指導者の方々は先刻よくご存知であるように見受けられる。NHKテレビで毎日体操を放送しているが、その中ではラジオ体操に比して良く改良された体操が何年も前から行われている。近年に何回か新しい体操が次々と提示されているが、何れも、初めは末端から筋肉を徐々にほぐして行き、だんだんと強度の強い全身運動に誘導するというグランドデザインはしっかりしている。筋肉を個々の部品と捉えて順々に「片付けていく」という旧来の発想もなくなってトータルの筋肉の動きを取り入れている。リズムも緩急メリハリがついている。ただ、このNHKの体操の欠点は集団で体操をした時に「全員きっちり揃っている」という鮮やかさに欠けることである。

 と、ここまで書いてきて、謎が解けたような気がする。なぜ、ラジオ体操第一、第二がダラダラと同じリズムでのんべんだらりとした同じ強度の腕と肩だけを中心にした偏った体操となったのか。なぜ、「スゴくない」体操となったのか。それは、集団体操として綺麗に揃って見えるように設計したからである。下半身を使う運動は、足の位置が大きく変わり集団のマス目が揃い難いのでダメ。全身の筋肉を総合的に使う動作は、個々人のタイミングを揃えるのが難しいのでダメ。リズムの速さが変わっても全員が揃い難いのでダメ。足をなるべく動かさずに、手だけを動かすと集団が揃ったように見えやすいのだ。ラジオ体操第一、第二は、集団の見た目を整えるのに良い体操だったのである。今の北朝鮮の軍隊の行進は、脚をピンと伸ばしてザックザックと歩く。さぞかし兵隊さんは歩き難いだろうと察する。しかし、見た目にはよく揃って綺麗に見える。ラジオ体操も、この北朝鮮と同じような発想で作られたのかも知れない。

 そして、そのスゴくない体操を受け入れた民衆側の心理は、集団の中でその集団の他のメンバーと同じ行動をする安心感であろう。手の振りさえ皆と合わせておけば、マアマアなんとか格好がつく。この簡単な動作で集団への帰属感が得られるので一般に受け入れられたのであろう。最近の似た例では、パラパラというダンスがある。足はその場で軽いステップをするだけの軽いダンスであるが、手だけは少し複雑に動かす。この手の振りを覚えればマアマアなんとか格好がつく。これは若者に広く流行ったが、それを踊っていた若者たちが集団に帰属したいという意識で踊っていたのだろうと心理学的には推察できる。考えてみると、このような集団帰属の満足感は昔から存在する。「盆踊り」がそうである。盆踊りは、人の輪の中に入り、手の振りを適当に周りの人に合わせればOKであり、自分も参加した!という満足感が得られる。そして、その踊りがダラダラと続く。ラジオ体操と非常に良く似た構造である。

 ラジオ体操は、このように、筋肉の運動としてはスゴくないものではあるが、表面的な整然さと、そこから導出される集団帰属感とで支えられたものなのだった。
(2013.02.05)

2013年1月24日木曜日

著作権侵害の重罪化の間違い

今の日本や米国では、著作権侵害には普通の窃盗より重い刑罰が科せられている。重くしておく理由は、侵害を検知しにくいからだと言われている。これは妙な理由付けである。それなら逆に、或る一つの内容(コンテンツなど)について、著作権という権利が「有る」ことについて権利者はどれだけの労力を払って一般国民全体に周知したのか。遍く周知させる努力を殆どしないで、もともと有るか無いか判り難い性格の権利をたまたま侵害したものに対して重い刑罰を科するのは、片方にばかり偏って味方するという「アンフェア」なことである。
 一万円札は自分の財布に入っているから「私のものだ!」と言えるのである。一万円札を道端にポツンと置いておいて「私のものだ!」と主張するのは不自然だろう。せめて自分の名前を書いた封筒に入れて道端に置いておく努力をしたら、一万円札は帰ってくるかもしれない。それが世の中の常識と言うものである。著作権についても、そのような世の中の常識というものを少しは考えて、常識の範囲での法整備をする必要がある。

2012年12月29日土曜日

北朝鮮金正恩と日本の幕府

 北朝鮮は軍事独裁政権と云われる。ところで、日本の歴史を改めて見直してみると、軍事力即ち武力で一国を統治することは昔から多く行われている。平安時代は貴族による統治だった。その後、武士即ち軍人が出てきて、その軍人が日本を統治する時代が長い年月続いた。鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府などは、皆「軍事独裁政権」であったといえる。天皇が国家元首でありながら、軍人が世襲で実際の政治を担当していたのである。
 しかし、成立当初は軍事力で政治的実権を握った各幕府も、時が経つにつれて性質が少しずつ変化してくる。鎌倉幕府は源頼朝が軍事力で実権を握ったのであるが、三代目将軍の源実朝になると、和歌を作る「歌人」として有名を馳せる。室町幕府は足利尊氏が軍事力で実権を握ったが、三代目将軍足利義満は金閣寺を建立したりして北山文化と呼ばれる豊かな文化を花開かせた。江戸幕府は徳川家康が軍事力で実権を握ったが、三代目将軍の徳川家光は、非常に豪華な日光東照宮を建立し、また「大奥文化」を花開かせた。
 これらの歴史的事実を踏まえて、軍事独裁政権の三代目「将軍」金正恩を考える時、彼も三代目として何か文化的な実績を上げてくれる可能性が高い。戦争志向をやめて、三代目らしく文化の向上に勤しんでほしいものだ。
 北朝鮮の法律では、国家に必要とされる使用目的で国家が使用するならば著作権のあるものを自由に使用できるということになっている。この法律自身は、(運用の程度問題はともかく)基本的には国際法と大きな齟齬は無い。だから、国家プロジェクトとして、ディズニーランドとユニバーサルスタジオとジブリのスタジオとを全てパクって一緒にし、キャラクターを集合させ混合した大レジャーランドを作って、国内海外の人々を招いて楽しませたらどうだろう。合法的で魅力的な文化的活動となるだろう。

2012年12月5日水曜日

並行輸入合法化をグローバルスタンダードに

従来、商標に関する並行輸入を禁止する理由として、「国内」での広告宣伝努力による効果を挙げるのが一般的である。しかし、この効果は、現在ではどんどん縮小している。尤も、広告宣伝そのものの影響力は、時代を経てどんどん大きなものになってきている。しかし、「国内特有の」という条件が付くと、縮小減少している。グローバル化が進み、また情報化が飛躍的に進んで来ている現代では、一般需要者はインターネットからの膨大な情報を得る。このインターネットの情報は、国内、国外を問わない。宣伝広告が日本語であっても、それが国内からの情報であるとは限らない。夥しい量の国外からの情報が日本語で配信されている。あるいは、日本語を含むマルチランゲッジとして配信されている。日本のような言語に閉鎖的な国でもこのような事態である。ましてや、英語にアレルギーの無い日本以外の非常に多くの国では、国内情報と国外情報との障壁は殆ど無い。情報に関して完全に国境フリーである。このような国々では、「国内で宣伝活動を地道に行ったから独自の国内価値を発生する」などという主張は、全く説得力が無い。日本もどんどんその状況に近づいている。国際的なブランドは「世界統一ブランド」として、その価値があるのであって、或る国に特有の突出した価値が生ずるということは、現在の世界情勢では消えつつある。このような現状を踏まえ、各国政府は「並行輸入は基本的に合法」という明確なスタンスを取るべきである。並行輸入を制限するという政府の規制は、世の中のグローバル化に逆らう時代錯誤の措置であることを、当該国政府は認識すべきである。並行輸入合法化をグローバルスタンダードにし、各国政府は並行輸入が合法であるという明確な意思表示をするべきである。

2012年11月23日金曜日

小売店が堂々と商標使用できますように

 或る商標を付けた商品を製造する目的ではないのだがその商標を使いたいという人が、商標権者にライセンスを求める行為は、通常はうまくいかない。例えば、個人営業の小売店が「あるメーカーの商品を扱ってるので看板やチラシにそのメーカーの商標を使わせてくれ」と権利者であるメーカーに正式に契約をお願いすると、権利者はああでもないこうでもないとあれこれ難癖をつけて、商標使用を許諾しようとしないのが常である。商標権者は自己の利益を最大限に考えて、ほぼ必ず「ダメ」と言う。商標というのは完全に自分の私有財産なので、「誰が他人につかわせてやるものか!」というようなスタンスでの対応が多い。一般に、商標権利者は我利への関心は非常に高いのだが、商標は消費者の混同を避け社会秩序を維持する為の公的システムであるというような高度な意識は希薄なのである。目の前の利益追求一本の資本主義という世の中では、仕方のない傾向なのかもしれない。
 しかし、このような我利我利を追求する姿勢には、社会秩序と社会正義の高所からの観点からの指導が必要であろう。商標というものは、商標権利者の考える正義ではなく、国民の考える正義の下で、社会全体で利用していかなくてはならない。
 だから、上記のような商標使用許諾のライセンスの可否については、権利者の意思に係わりなく、日本なら公正取引委員会、米国のFederal Trade CommissionやフランスのConseil de la Concurrenceなどが判定することにするとよいと思われる。そして、このような判定機関は、上記のような公的バランスを考える機関なら良いのだが、商標局(日本で言うと特許庁)ではダメであろう。一般に商標管理局は、権利者側から収入を得るシステムになっており、また権利者側と密な繋がりがある場合が多いので、権利者側の立場に立ちやすく、客観的公平な判定には支障があると思われる。
 それに、法律の整備も必要だ。欧州では欧州商標指令の6条に「商標の効力の制限」という項を設け、商標権者以外でも、こういう場合こういう場合はその商標を使っても良い、ということが表記されている。日本の商標法では26条などであるが、はっきりしない。いずれにしても、商標局ベースの法律なので、もっと全体視野に立った機関からの具体的ガイドラインが必要であろう。

2012年10月11日木曜日

商標法の立法精神の問題点

 法律は、その法律を作った目的などの立法精神を前文や第1条などに記載しているものが多い。商標法の立法精神は、日本商標法では第1条に「この法律は、商標を保護することにより、商標の使用をする者の業務上の信用の維持を図り、もつて産業の発達に寄与し、あわせて需要者の利益を保護することを目的とする。」とある。ここで法律により守られ特権を与えられているのは商標権者である。需要者(消費者)の利益に関しては「あわせて」保護されるという付け足しのような存在になっている。商標法の各条文も、商標権者がどのような手続きをしたら、どのように護ってあげるというような内容のものが殆どである。第26条など僅かに商標権者以外の人を護る条文もあるが、それは競業者を保護する規定である。需要者の利益を直接保護する規定は非常に少ない。第51条、第53条に需要者の保護に関係ありそうな条文が存在するが、実際に需要者の保護を謳ったものではない(この条文については後で述べる)。
 そもそも、商標の価値とは何であろうか。商標は、単に登録しただけで使わなければ実際の価値は無い。更に、権利者が使ったとしても、それが消費者の信用を得ることがなければ実際の価値が無い。結局は、消費者が信用を与えて初めて価値が生まれるのである。商標の信用という価値を生むのは消費者即ち需要者と商標権者との間の信用関係なのである。だから、この両者のどちらか一方が欠けては商標の価値は存在しない。その価値を生む需要者は、商標権者と同列で先ず真っ先に保護されなければならない。優先的に保護されるべきなのは商標権者だけではないのである。需要者というと結局は一般国民であるということを考えると、むしろ、商標権者よりも需要者を第一に考えることが自然で当然な考え方とも言えよう。この基本的で重要な観点が多くの国の商標法から抜け落ちている。本来なら、商標法は、「需要者第一」ということを立法精神に挙げなければならない。即ち、「需要者の利益を確保する為に、標章の混同が起きないようにする。」ということを出発点としなければならない。
 このように、需要者即ち国民の保護というものを商標権者より優先させて、または、少なくとも商標権者と同列の優先度で考えていくと、商標法の成り立ちも根本から変わってくる。
 その一つは、商標の存在意義に現れる。商標というものは、先述したように商標権者と需要者との信用関係が価値となるものであるから、「社会的」「公共的」な存在である。この存在意義が、より深く商標法に織り込まれなければならない。例えば、商標権者の自由裁量で勝手に信用を低下させることは制限されなければならない。現在の日本商標法では、第51条、第53条が商標権者の品質維持管理義務に関する条項であるが、商標権者が自分勝手に商品の品質を故意に劣化させることについては、現在は法律的には全く罰せられることがない。故意に品質を劣化させた商標権者は、何れ月日が経てば需要者が品質劣化を認識しそれが広まることにより信用度が徐々に落ち結局は売り上げ減となり自ずと市場の裁きを受けることになる。現在は、このような市場原理に任せて放置した法律になっている。ところが、この現行法では、商標権者が自ずと裁きを受けるまでの長い間ずっと消費者は劣化した商品を買い続けることになる。即ち、需要者は長期に亘り保護を受けずに信用を裏切られ続けることになっている。このような法律は作り直さなければならない。
 需要者を優先させて考える他の観点は、「独占」についての考え方である。商標法は、文字なりマークなりを独占させる為の法律であるが、健全な市場では一般に「独占は悪」とされている。即ち独占禁止法と知的財産権法は鬩ぎ合う関係にある。知的財産権法は一般に独占を確保する方向に働いている。しかし、需要者を商標権者と同列に商標法の主役に持ってくると、需要者は独占の利益などは全く望んでいないので、法律の趣が変わってくる。需要者は単に、安定した信用システムを欲しているに過ぎない。更に一方では、需要者は、多種多様な商品選択肢の存在を欲している。この多種多様な選択肢というのは、独占という概念とは真っ向反対のものである。このように独占を否定する概念を商標法自身に取り入れる必要が出てくる。現行法では、第26条がその関連条文として存在しているが、需要者を主役に考えてみると不十分な規定である。
 更には、需要者というのは一般大衆消費者であるので、非常に多くの多種多様な人が居るということを法律的に考慮しなければならない。商標登録を実施し商品やサービスを提供する商標権者が主な対象であれば、一定レベル以上の理解力や実行力を想定して法律を作成することができるが、需要者という一般大衆を主な対象とする場合は、法律の構造自身を変える必要があるということである。例えば、商標法の基本概念は「混同を起こさない」ということであるが、何十万人、何百万人の需要者が誰も混同を起こさないということは考えられない。いろんな人が沢山いるので、どこかで誰かが必ず勘違いをする。大きな字で「塩」と書いてあっても、白い粉だから砂糖と勘違いして使う人が必ず居るものである。このような現実に対して、現行のような「混同のおそれが有るか、無いか」の二者択一をするという法律システムでは機能しない。
 以上、商標の価値というものを深く考えると、需要者を主役にした立法精神のものにし、現在の商標法を基礎から作り直すことが必要となってくる。

2012年10月1日月曜日

医学的な「丁度良い、頃合、適度、適当、中道、中庸、moderate 」

 コレステロール値は、40年ぐらい前の大衆の認識としては総コレステロール値のみが問題にされ、高ければ循環器系の病気になり易いので低ければ低いほど良いとされていた。20年ぐらい前になると、大衆の認識が変わり、善玉コレステロールと悪玉コレステロールとがあり、悪玉コレステロールをどんどん減らして、善玉コレステロールをどんどん増やすのが良いとされるようになった。現在の大衆の認識は更に変わりつつあり、悪玉コレステロール(LDL;低密度リポ蛋白質)も体には一定量必要であるとの認識が芽生えてきた。要するに、どの成分の値も高すぎても低すぎてもダメで中庸がよいということである。
 血中尿酸値については、過去数十年、高いことは痛風の原因であり悪 いこととされていた。尿酸値が低ければ低いほど痛風にかかり難くて良いとされていた。しかし最近の研究で、尿酸は抗酸化作用が強く老化防止健康維持に効く らしいことが解って来た。尿酸を減らしすぎてはならない。要するに中庸が良いのである。
 肥満についても、数十年以上前の昔から健康に悪いと言われてきた。高齢者の肥満は短命とされてきた。痩せている人は長生きとされてきた。しかし最近数年の研究によると、少し肥満している高齢者の方が長生きすることが判って来た。要するに、過度な肥満は良くないが、適度に太っているのは良いことなのである。
 血糖値については高いとダメと言われていたが、インシュリン投与で血糖値低下を起こして体調不良となり酷い場合は死亡となることが判り、血糖値も中庸が良いということが判った。
 飲酒については、過去から良く研究されており、過度の飲酒は勿論健康に悪いが、「酒は百薬の長」の言葉が古くからあるとおり、適度のアルコール補給は健康に良いことが解っている。
 もともと、多くても少なくてもダメということは、論語の昔より「過ぎたるは及ばざるが如し」と言い伝えられていた。このように、中庸が良いということは昔から解っている真理なのに、どうして最近まで、コレステロールについての知恵が回らなかったのか? どうして尿酸値についての知恵が回らなかったのか? どうして肥満についての知恵がまわらなかったのか? 
 それは多分、人間は「なるべく単純に考えたい」という本能的思考回路になっているからだろう。「頃合、適度、適当、中道、中庸、moderate」などという概念は解り難い。「あれはダメ」「これはダメ」という単純で解り易い概念を、人間は好むのであろう。「高コレステロールはダメ」「高尿酸値はダメ」「肥満はダメ」ということである。それを言い換えると「低コレステロールは良い」「尿酸少ないのは良い」「痩せていれば良い」ということ。この単一方向性が単純性故に好まれることになる。
 さて、昔も今も人間に好まれている単純な命題は、「死んだらダメ」「長生きは良い」。はたして本当かな?